/外界、遥彼方で時計の針が四十四の時を刻んだ。
ミュールはシルクに包まれベッドに横たわる。
重くのしかかるような闇のその下に
辛うじてそれとうかがい知れるほどのまどろむ粒子の存在として。
/闇に脈動する思念は空気を震わせ可聴領域へと命を結ぶ。
世界は一つの塔を中心とした闇の中で死んでいる。
その塔はミュールを貫き、ミュールを歓喜させるために存在する。
鉄柵に取り囲まれた石組みの塔の最上階の小部屋。
全ての壁面を異なった重さのカーテンが覆っている。
北側の壁面は天井から床まで生まれ替わりを約束する
青草色のカーテンが真鍮の窓枠を覆っている。
南側の壁面は偽りの金剛石でかたどられた
不愉快なカーテンが存在しない窓を塗り固める。
東側の壁面には薄い紫色のカーテンが天井から
僅かに五十センチ程の長さだけ備えつけられており、
西側の壁面には騾馬に跨がる騎士のレリーフが施された木製のドアが据えられ、
そのドアの存在を隠蔽する為の真紅のカーテンが壁面全体を覆い尽くしていた。
/遥か遠く存在しない外界の彼方より時を告げる鐘の音が鳴り響く。
震える空気は土色の壁面を半ば強引に突き抜ける。
そして薄い紫色のカーテンが静かに波を打ち、室内の闇がゆっくりと渦巻く。
震える空気は密度を増していく。
小さく不愉快な部屋でミュールはベッドに横たわり、快感に震えている。
シルクのシーツは彼女の身体を隙間無く包み込み、穏やかに上下する胸を優しく撫でる。
やがて渦巻く空気は淡い乳白色の霧となり、
闇に打ち勝ち闇を押し退け、シルクに溶け込み彼女を愛撫する。
人の心臓と同じリズム。
存在しない外界に広がる潮の満ち引きと同じリズム。
地域管理者は降臨された。
彼女はまどろみの直中で地域管理者に抱かれる。
彼女には地域管理者の激しい息づかいと胸にのしかかる重さ、
そして下半身を支配するせつない宇宙の熱しか感じられない。
限られた感覚がミュールの全てを支配し、
一切の感慨が失われ勢いを増すリズムに飲み込まれる。
地域管理者の全てだ。
ミュールは全身に汗をかきシルクが彼女の身体に張りつく。
乳房の影がくっきり現れる。ひといき、顔が苦痛に歪む。
両足は小刻みに震え、両の手はシルクを力強く握りしめ、手首に血管が浮き上がる。
リズムが爆発する。一つ、二つ、三つ。
緑色の声が闇を突き抜け石組みの塔を突き抜け存在しない外界へと突き進む。
しばらくすると、乳白色の霧は
ミュールの全身に噴き出した汗を吸収し、その色を血色へと変えていく。
シルクの上にくっきりと人型の窪みが浮かび上がる。
地域管理者の影。
血色の影はミュールに覆いかぶさり再びリズムを増す。
窪みの下腹部だけが乳白色の霧のまま残され
その霧はシルクを突き抜けミュールの内股を破壊した。
闇は決してミュールを支配することは出来ない。
破壊を促すことも出来ない。
ただ、見守るしかない。
/闇と血色の影は緑色の声を見失い、深くため息をついた。
2
ガツン、と大きな音が響く。何度も何度も繰り返し聞こえる。
何かを打ち付ける音。何か堅いもので堅いものを打ち据える音。
ミュールは誰かがドアを激しく叩きつける音で目覚めた。
見開かれた両目の先、ドアの前の真紅のカーテンが快感に震える血脈のように震えている。
ドアを叩きつける音は激しさを増す。
その激しい胎動に子宮全体が震えミュールにも激しい鼓動が伝わる。
羊水は消え去り、霧散した。
「うるさい!」
四面のカーテンが震える。
ミュールはシルクの内側で胎児のように身体を折り曲げ、
汗に濡れた髪の一束を口に含み、汗の味を楽しむ。
髪には血の固まりが付着しており、無数の味蕾は血の味を感知し、
そこに残されたメッセージを彼女の脳に伝達する。
「血だ。わたしの血か? それとも」
彼女は何一つ覚えていなかった。
夢を見ていたような気もするが何一つ思い出せない。
ひどく汗をかいているのはどういうわけなんだ?
「ミュール、早くドアを開けろ!」
ドアは相変わらず激しく打ち付けられている。
聞き覚えのある声。若い男の声。
やがてドアを打ち付ける音は明確なリズムを刻みその音が彼女を不安にした。
ミュールはずっと昔、まだ幼い子供の頃の記憶を呼び覚ましていた。
鐘の音、潮の匂い、見知らぬ男の顔。
鼓動が聞こえる。手のひらに感じる。血管が浮き上がる。
そう、血。涙。
一際激しく深紅のカーテンが大きく波打った。
そして黒いものがカーテンの中から現われた。
ドアに掘り込まれた騎士のレリーフがズルリと剥がれ落ち
石組みの床に乾いた音を立てた。
木製の騎士は恍惚とした眼差しをミュールに向け
毒々しい舌をベロリと突出し床の上でけいれんする。
ああ、まただ。
騎士は死んだ騎士は死んだ騎士は死んだ騎士は死んだ騎士は、
「開けるから、もうやめてくれ」
ミュールが喉の奥で呟くとドアを打ち付ける音はピタリとなり止み、
怒鳴り付ける男の声も消えた。
彼女はベッドから抜け出すと、何一つ身にまとわず確かな足取りでドアに向かう。
深紅のカーテンを引き開け、
騾馬に跨がる騎士のレリーフの施されたドアを押し開けた。
鍵はかかっておらず、軽く外に押し出すように手を添えただけで開いた。
ドアの外は天然の草花で編み込まれた絨毯が敷き詰められた部屋が
果てしなく広がっており、その限界は見通せない。
雲一つない青空を模した天井が絨毯と同じようにどこまでも広がっており、
部屋の中を微風が吹き渡り草花を微かに煽っている。
「何だか懐かしい感じがする」
足元に血の跡がある。血痕は草原の絨毯の上を点々と続いている。
遥か部屋の奥に向かって真っすぐ続いている。
ミュールは部屋に一歩踏み込みドアを後ろ手に閉めた。
騾馬に跨がった騎士は深紅のマントを羽織り口から血をしたたらせ、彼女を見つめていた。
「戻ってはいけない、ミュール」
3
血痕はどこまでも続いていた。
血は乾いて固まったものから徐徐に光沢を帯びなめらかさを増し、逆転する命を訴えかけた。
彼女は血の味を思い出していた。
遥か昔、まだ子供の頃、恍惚とした意識の中で鉄を舐めた時の味。
海。そして古びた灯台。
「夢だ。それは夢だ」
数十メートル先、天井の一角に人間の鼻が張りついていてひくひくと匂いを嗅いでいる。
信じられないことにありえないほどの大きな鼻でおよそ手のひら程もあり、
規則正しい息遣いの中にフンフンと匂いを嗅ぐ様を見せている。
ミュールは絨毯に続く血痕を辿るうち、
その大きな鼻の真下を通過しなければならないことに思い至り
ひどく怯え数メートル手前で立ち止まり、あらんかぎりの声で叫んだ。
「ごめんなさいごめんなさい! どうかそれだけは!」
すると、鼻は答えた。
「ミュール、君はいけない子だ。罰を受けなければならない。分かるね、ミュール」
さも当たり前であるかのように鼻は彼女に向かってきた。
ミュールは全てを諦めて草花のなかに横たわり、両足を開く。
鼻がのしかかってきたとき、彼女の両目には
乳白色の霧がぼんやり世界を包んでいるのが見えた。
霧は巨大な鼻の鼻腔からどんどん漂いだし世界を包んでいた。
彼女は快感の中で横たわるしかなかった。
この感じには覚えがある。波のない快感。ずっと子供の頃だ。
「もう二度とするんじゃないぞ。分かったね、ミュール」
鼻は青空の彼方へ飛び去る。
そして彼女がずっと辿ってきた血痕はちりじりに霧散し、
微風に煽られ青空の彼方へ消え去っていく。
乳白色の霧は血色の霧と交じり逢い世界を包む。
ミュールが上体を起こすと
ちょうど内股の辺りに乳白色の靄が漂っているのが見えた。
彼女は激しく嘔吐した。汚物が喉につまり涙を流した。
/乳白色の霧と血色の霧は緑色の声を聞いた。遥か遠く存在しない外界から。
ミュールの視界は突然失われ、重たい闇が目蓋を支配した。
闇の息遣いと密度を感じる。
内股から血が吹き出した。
闇と乳白色の靄がぶつかり合い、まるでドアを打ち付けるような音をたてる。
それは激しさを増すばかりで止まらない止まらない。
騎士がミュールの口を強引に押し開け、口内に鉄柵を押し込む。
苦しくて苦しくて息が詰まる。
血の味がする血の味がする。
騎士の息遣いの中から潮の音が聞こえる。
血の潮だ。リズムが、リズムが見える。
「戻るなといったのに! なぜだ!」
乳白色の騎士が目蓋の裏に見える。
深紅のマントを羽織り騾馬に跨がる騎士。
深紅のマントはシルクのシーツだ。
声が、緑色の声が、騎士の息遣いと潮の音を押し退け
ずっと子供だった頃のミュールの中から、ひたひたと聞こえる。
「死が聞こえるよ。わたしの死が聞こえるよ」
リズムと鼓動が見える。一つ、二つ、三つ。
子供のミュールの意識が血管の中を突き進む。
もうすぐ終わる。もうすぐ止まる。もうすぐ消える。
もうだれも愛してくれない。もうだれも見守ってはくれない。
しばらくすると終わってしまうの。わたしは消えてしまうの。
遥彼方で時計の針が四十四の時を刻む。
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